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ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
SHOSTAKOVICH, Dmitrii (1906.9.25-1975.8.9)
1906年サンクトペテルブルク生まれ。1925年ペトログラード音楽院を卒業後、ソ連人民芸術家(1954年)、レーニン賞(1958年)、社会主義労働英雄(1966年)、スターリン賞(5度)、ソ連国家賞(1968年)、RSFSRグリンカ記念国家賞(1974年)といったソヴィエト体制下で最高の栄誉を次々に授与された、20世紀を代表する作曲家の一人。
ショスタコーヴィチの作品群は多岐にわたり、交響曲15曲と弦楽四重奏曲15曲という二大ジャンルに巨大な遺産を残した。交響曲第7番『レニングラード』は、戦時下の抵抗の象徴として世界的に知られている。このほか、オペラ(『ムツェンスク郡のマクベス夫人』など)、バレエ、6曲の協奏曲、室内楽、映画音楽、舞台音楽などを多数作曲している。国際的な名声も非常に高く、アカデミー賞に1度(映画音楽『ホヴァーンシチナ』)、グラミー賞に2度(『ピアノ協奏曲第2番』、『交響曲第4番』)ノミネートされた。
ショスタコーヴィチのキャリアはソ連当局との緊張関係の中で築かれた。1926年の音楽院卒業作品『交響曲第1番』の初演で即座に世界的評価を得たものの、1936年にオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』がプラウダ批判を受けた。これを受けて発表された『交響曲第5番』(1937年)は、その勝利に満ちたフィナーレが「批判に対するソヴィエト芸術家の創造的応答」と公式に称賛され、彼の地位は回復した。その後、1948年にはジダーノフ批判を受けた。1953年には、スターリンの死と『交響曲第10番』の初演をもって確定的に立場が回復し、1957年から1974年までソ連作曲家同盟の書記、1960年から1968年までRSFSR作曲家同盟の議長を務めた。1937年以降、レニングラード音楽院で教鞭を執り、1943年からはモスクワ音楽院でも教授を務め、多くの後進を指導した。晩年は病気に苦しみながらも、1975年に亡くなる直前まで創作を続け、絶筆となった『ヴィオラとピアノのためのソナタ』を完成させた。
ショスタコーヴィチの音楽は、高度な作曲技術、独自の旋法(減四度を多用した、自身の名前にちなんだD-Es-C-Hなど)の見事な使用、そして強烈な感情的深さによって特徴づけられ、20世紀の悲劇と不屈の精神を力強く捉えた、不可欠な存在であり続けている。
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